「ふつうの軽音部|鷹見の兄が与えた“音”と“影”──兄弟という関係の光と闇」

ふつうの軽音部

『ふつうの軽音部』には、青春と音楽をテーマにした王道の魅力だけでは語りきれない、静かで複雑な人間ドラマがある。なかでも、鷹見項希というキャラクターの背後に見え隠れする“兄”の存在は、多くを語らずとも読者の胸を打つ。兄弟とは何か。音楽は何を継ぐのか。この記事では、鷹見項希とその兄・竜季の関係に焦点を当て、「音」と「影」が交錯するその関係性の本質に迫る。

鷹見が兄から受け取った“音”──憧れが始まりだった

鷹見項希にとって音楽とは、最初から「自分のもの」ではなかった。それは常に兄の背中とともにあったものであり、彼の最初の憧れだった。兄・竜季が奏でていた音、その立ち姿、その表情──すべてが、項希の中に「理想像」として焼き付いている。だが、その“音”はいつしか、憧れだけでは語れない葛藤の起点にもなっていく。
それは、音楽というよりも、“兄の記憶”そのものだったのかもしれない。

兄が奏でていた音楽と“神格化された記憶”

項希が幼少期に観た兄・竜季のステージは、今も彼の中で特別な光を放っている。その演奏は完璧ではなかった。けれど、観客に向けるまなざしや、音に乗せた言葉には、どうしようもない“熱”が宿っていた。項希にとって、兄の姿は“才能”ではなく、“意志”の塊のように映っていたのだ。
その記憶は、やがて項希の中で“神格化”されていく。兄はすごかった、兄の音楽は違った──そう繰り返すうちに、項希はいつしか「兄のようにならなければならない」という呪縛に取り憑かれていく。
音楽への情熱が、いつの間にか「理想の兄像」をなぞる行為にすり替わっていた。

項希が初めて抱いた“音への執着”

ギターを握った最初の理由は、純粋な憧れだった。だが練習を重ねるほどに、項希の中に芽生えたのは「追いつきたい」ではなく「越えなければ」という焦りに近い感情だった。
音が好きだから演奏する──その感覚を彼はいつの間にか失っていた。
周囲からの称賛や注目は彼にとって「兄に少し近づけた証」だった。そうでなければ自分の存在意義が揺らぐ。音楽は、彼にとって自分自身をつなぎとめる唯一の手段になっていた。
その執着の裏には、「弟であること」への強いコンプレックスが潜んでいた。

「protocol.」に込められた父との約束と兄への決別

“バンド活動をしてもいい。ただし、部活の範囲で”──これは、兄を失った父との間で交わされた項希の約束だった。
項希はその約束を忘れないように、自身のバンドに「protocol.」と名付ける。protocol=事前の取り決め。音楽をやる上で、自分自身への“リミッター”として、それは必要だった。
一方で、その名前にはどこか“決別”の意味も宿っている。兄のように音楽にのめり込みすぎないように、兄のようには壊れないように。
だが──それでもなお彼は、音楽の中で兄を思い出し続けるのだ。
兄の“ように”ではなく、“自分の音”を探すという矛盾と向き合いながら。

“音”の継承と歪み──項希の音楽観の始点

項希が奏でる音には、兄への思慕と拒絶の両方がある。兄が失踪してからというもの、彼の音楽にはどこか“空白”があるように感じられる。完璧なテクニック、計算された構成、それらの裏にあるのは、「あのとき兄に届かなかった自分」の感情だ。
音楽を通じて兄に届きたかった、認められたかった。けれど今は、その音楽自体が鎖になっている。
彼はまだ、兄から自由になれていない。それでも音楽を続けている──という事実こそが、項希というキャラクターの繊細さと強さの象徴なのかもしれない。
“届かなかった音”を、それでも鳴らし続ける強さ。
その音は、きっとまだ完成していない。

鷹見が兄から受け取った“影”──語られない傷跡

憧れの対象が崩れたとき、人はそれをどう受け止めればいいのだろうか。鷹見項希にとって、兄・竜季は最も美しく、そして強い存在だった。音楽の才能に恵まれ、誰よりも輝いて見えたその背中は、項希の指標であり、自分も音を鳴らして生きていく理由だった。
だが、その兄が突然姿を消し、遺されたのは音ではなく、言葉にできない“影”だった。
ここでは、項希が背負わされた“語られなかった痛み”について掘り下げていく。沈黙の奥にある、兄との関係に刻まれた深い軌跡を見つめてみよう。

兄の苦しみを知らなかった弟という罪悪感

竜季は、静かに壊れていった。
傍から見れば明るく、音楽に情熱的な兄だったが、その内面に押し込められていた苦悩は、弟である項希にも、家族にも、届いていなかった。
そして、ある日突然、兄は音楽を捨て、姿を消した。
それが、項希の中で「罪」として残る。
「自分だけ、何も知らなかった」。
音楽に夢中だった兄の瞳の奥に、なぜ気づけなかったのか。弟である自分が近くにいたのに、兄の苦しみを受け取れなかったことへの後悔が、彼の心を蝕んでいる。
項希は「二度と、誰かの異変を見逃さない」と決める。だがそれは、他人に過剰に気を配り、自分の感情を押し殺すという生き方でもあった。

“父”が見せなかった涙──鷹見家の沈黙の構造

鷹見家は、優しい家族だった。
怒鳴ることもなければ、感情を爆発させる場面もない。けれどその穏やかさが、ときに“逃げ”になることもある。
兄が変わっていく過程を、家族は気づいていたのかもしれない。だが、それを「家族の空気」で覆い隠し、問いかけないまま時が過ぎた。
項希の父も、母も、兄の不在について多くを語らない。父は泣かず、母は微笑んだまま、項希に「元気でいてね」と言った。
沈黙は、やさしさの皮をかぶった鈍い刃のように、項希の心を切り続けた。
だから彼は、「沈黙」を“対話”と勘違いしながら育ってきたのかもしれない。

「僕も壊れてしまうかもしれない」──項希の心の予兆

音楽に向き合う時間が長くなるほど、項希は自分が兄と似てきていることに気づく。
内にこもる癖、人と一定の距離を置くところ、そして「音」に逃げ場を求める姿勢──。
ふとした瞬間、鏡に映る自分の姿が、かつての兄と重なって見えることがある。そのたびに、胸の奥がざわつく。
「自分も壊れてしまうかもしれない」。
その予感は、確実に彼の中に根を張っている。
しかし項希は、それを誰にも話せない。話してしまえば、壊れるのが早まってしまいそうで。
だから彼は、音に閉じ込める。感情を、メロディに隠し込む。
それが彼にとっての“叫び方”なのだ。

項希が選ぶ“沈黙”という防衛手段

鷹見項希は、よく喋る。
冗談を言い、場を和ませ、誰かが落ち込んでいればすぐにフォローに回る。
だが、それは彼の“仮面”だ。
本当の自分を見せてしまえば、過去の傷が露呈し、誰かを傷つけてしまうかもしれないと、彼は本気で思っている。
「沈黙」は、彼の中で“やさしさ”の形をしている。
怒らず、泣かず、笑っている。それが彼なりの生き抜き方だった。
だがその沈黙は、内側で常に悲鳴を上げている。
「助けて」とは言わないけれど、その沈黙の奥には、言葉にできない無数の“もしも”が渦巻いている。

“演奏”とは誰のためにあるのか──鷹見項希の答え

音楽は、誰かのために奏でるものなのか。それとも、自分のために奏でるものなのか。
“ふつうの軽音部”という居場所のなかで、鷹見項希はその問いと静かに向き合っている。
兄の背を追いながら、兄とは違う音を鳴らすという矛盾。そのなかで彼が見つけた“演奏の意味”は、自己証明でも感情の吐露でもない、もっと静かな共鳴だった。
この章では、彼が音楽に込める“感情”と“願い”に迫っていく。

“誰かのため”という呪い──自己否定からの出発

「演奏は、人の心を動かすためのもの」
そんな言葉を、鷹見はずっと信じようとしてきた。兄がそうだったから。
けれど彼の出発点はそこにない。“誰かのため”にやろうとすればするほど、自分の音が消えていく
その葛藤はやがて、兄のようになれない自分を責める“自己否定”となり、彼を長く縛った。
それでも彼は、音をやめなかった。やめられなかった
それはもう、誰かのためというより、自分の“呼吸”だったのだろう。

音が重なることでしか見えない“感情”がある

軽音部のセッションで、初めて他人と音を重ねたとき。
鷹見は戸惑いながらも、“言葉ではないやりとり”を確かに感じ取っていた。
音楽が語るのは、感情の言語だ。
言葉を選べない彼にとって、ギターの音はむしろ素直な“本音”だった。
自分が何を感じているのか、それを“音”が教えてくれる。
そしてそれは、仲間と重ねる中で育っていく感情でもあった。
音が重なることでしか気づけない“感情”──それが鷹見の演奏の軸となっていく。

「伝える」ではなく、「触れる」ための演奏

鷹見の音楽に、派手な技術はない。
けれどその音は、なぜか心に“触れて”くる
届けようとするより先に、彼自身が震えているからだ。
彼は“感情を表現する”というより、音を通じて「触れる」ことを求めている
自分にすら気づけなかった感情が、他人の音に反応して浮かび上がる。
その瞬間を、彼はずっと待っていたのかもしれない。
音楽とは何か?
その答えは、彼にとって「誰かに伝えること」ではなく、「誰かと触れ合うための余白」だった。

“失われた観客”としての兄──そして再定義される演奏

鷹見の中には、いまだに“聴かれなかった音”がある。
兄に届けたかった。認めてほしかった。
だけど、もうそれは叶わない。
だからこそ彼は、「誰かに届ける」という構図から演奏を解き放つ必要があった
聴いてくれる誰かに評価されなくてもいい。
音を鳴らすことで自分が“在る”と確かめられるなら、それでいい
兄という“失われた観客”を胸に抱いたまま、彼は新しい観客──いま隣で音を鳴らしてくれる仲間に向けて、そっと演奏を続けている。

兄と違う音を、兄のために──“継承”と“更新”

鷹見の音楽は、兄への弔いでもある。
同じ道ではなく、違う音を鳴らすことで兄に向き合う
それは“反抗”でも“拒絶”でもなく、“継承”の形だ。
兄が遺した音楽をなぞるのではなく、自分の感情、自分の音、自分のリズムで“更新”していくこと。
それが、鷹見項希が選んだ“兄との対話”であり、“演奏”の定義なのかもしれない。

“語られない関係”が、物語に何を与えるのか

この物語には、名前のない感情や語られない関係が、静かに息づいている。特に鷹見兄弟の関係は、あまりにも少ない言葉と描写しか与えられていないにも関わらず、読者の心に確かな影を落とす。それはまるで、光が強ければ強いほど、影が濃くなるようなものだ。

鷹見項希が奏でるギターの音に、亡き兄の気配が染み込んでいるように感じる読者は多いだろう。直接的な描写がないからこそ、読者の想像が余白を埋める。そしてその想像こそが、読者一人ひとりの過去と結びつき、物語への没入を生む。つまり、「語られない関係」は、物語の外側にいる“私たち”の記憶と繋がるための装置でもあるのだ。

たとえば、家族とすれ違った日々、うまく言葉にできなかった「ありがとう」や「ごめん」が、そのまま胸に沈殿しているような人にとって、鷹見兄弟の空白は、過去の痛みと共鳴する静かな共犯者になる。

本作が描く「音楽」もまた、言葉の代わりだ。音楽は時に、語られなかった関係を語り直す手段となる。項希の演奏に滲むのは、テクニックでも努力の結晶でもなく、“兄の不在”という空洞を埋めようとする、切実な祈りなのかもしれない。

言葉を交わさずとも、誰かを思うことはできる。誰かの背中を追い続けることはできる。そんな当たり前だけれど忘れてしまいがちな感情を、本作はそっと差し出してくれる。

そしてその姿勢は、他のキャラクターたちにも通底している。語りすぎないことで関係性の繊細さを保ち、観察者である私たちに「これはどういう感情なのだろう?」と考える余地を与えている。つまり、“語られなさ”は、読者に考える責任を委ねる物語構造でもある。

「ふつうの軽音部」は、青春の群像劇でありながら、そこには多くの“沈黙”がある。対話の途中で視線を逸らす。言いたい言葉を飲み込む。誰かのために演奏することの意味を、自分の中だけで探し続ける──そのすべてが、音楽という形で、静かに叫んでいるのだ。

言葉にしない強さ、言葉にできない弱さ。その両方を抱えて、登場人物たちは生きている。そして、私たち読者もまた、そうした“語れないもの”を胸に抱いて、この物語を読む。だからこそ、共鳴が生まれる。

最後に問いかけたい。“語られない関係”は、本当に語られていないのだろうか?登場人物の表情、仕草、音楽、そして空白。そこに宿る感情は、言葉よりも雄弁に、何かを訴えてはいないだろうか?

この物語が伝えたいのは、“声に出せなかった気持ちにも価値がある”ということなのかもしれない。語られない関係は、たしかにそこに在る。そして、それがあるからこそ、音楽は強く、美しく、切ない。

それはまた、“喪ったもの”とともに生きることの肯定でもある。鷹見項希がギターに込める旋律には、兄を思い出すことでしか立ち上がれなかった日々があるはずだ。そして、そんな彼の姿を、言葉ではなく演奏で受け止める軽音部の仲間たちの存在もまた、語られない優しさの象徴なのだ。

物語が進むにつれて、彼のギターが少しずつ変わっていくように感じるのは、彼の中で何かが癒え、何かが育っていっている証なのかもしれない。そう思わせる余白が、この作品にはある。

だからこそ、語られない関係は、未完成なままでも美しい。語られなかった分だけ、そこには“これから”が詰まっている。私たちがこの作品に感じる余韻とは、きっとその“未完成さ”がくれる、未来への期待なのだ。

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