ふつうの軽音部の楽曲を全部まとめてみた|物語とリンクする名曲一覧

ふつうの軽音部

『ふつうの軽音部』は、音楽×青春という王道を、どこまでも“ふつう”に突き詰めた異色作です。
物語のなかで奏でられる楽曲は、ただのBGMではなく、キャラクターの感情を翻訳する“もう一つのセリフ”のような存在。
この記事では、『ふつうの軽音部』に登場する全楽曲を一覧形式で紹介しつつ、物語とどう結びついているのか、心を動かす理由を紐解いていきます。

第1〜6巻収録:『ふつうの軽音部』登場曲を完全網羅

“軽音部あるある”に見せかけて、鳴っているのは誰かの「本音」だった。
『ふつうの軽音部』に登場する楽曲たちは、登場人物の感情や関係性の節目に流れ込んでくるように配置されている。
単なる選曲ではなく、“物語の起伏と共鳴するプレイリスト”になっているのだ。

ここでは、各巻に登場する曲たちを一覧にしつつ、それがなぜ心に残るのか、その理由を“音”と“言葉”の間でひもといていく。

第1巻〜第2巻:音楽との出会いと、自分をさらけ出す痛み

「初めて好きなバンドを人に話すのって、なんか恥ずかしい」——そんな感情を思い出させてくれるのが、序盤のシーンたち。
鳩野ちひろが夜の視聴覚室で弾いた「everything is my guitar」は、“誰かに聴かせる”というより“自分を聴きとる”ために鳴らされていた。

ここに出てくる曲はどれも、まだ誰にも言えない“自分だけの何か”を抱えたキャラたちに寄り添う。

  • 「おしゃかしゃま」/RADWIMPS:項希の孤独な試奏に流れる、尖ったエゴ。
  • 「everything is my guitar」/andymori:ちひろが音に想いを託した、“はじめての表現”。
  • 「ソラニン」/ASIAN KUNG-FU GENERATION:歌詞の一節が、彼女たちの不安と希望にリンクする。

この時期の彼女たちにとって、音楽は防波堤ではなく、むしろ波そのものだった。
ぶつかってくる感情、ざわめく孤独、それでも弾いてみたくなる衝動。そのすべてが曲に宿っていた。

第3巻〜第4巻:音楽が“居場所”になった瞬間

文化祭が近づくなか、バンドとして“誰かと一緒に鳴らす”意味が少しずつ浮かび上がってくる。
その象徴が「UFOを呼ぶダンス」だ。るりるり帝国の演奏シーンでは、観客の手拍子と笑顔が、“音が他人と繋がる瞬間”をまざまざと見せてくれた。

  • 「理由なき反抗」/a flood of circle:彩目の孤独な感情を“ノイズ”でぶちまけるような一曲。
  • 「UFOを呼ぶダンス」/るりるり帝国:音楽で“仲間”になる、青春のピーク。
  • 「ドラマツルギー」/Eve:ライブ前夜の不安や期待が、この曲のテンションに重なる。

この巻から、“私はここにいる”という叫びが、“私たちはここにいる”というハーモニーへと変化していく。
たとえばちひろが笑いながら演奏する描写ひとつとっても、そこにはもう孤独はない。

第5巻〜第6巻:バンドとして動き出す“熱”の正体

ライブはもう練習の延長線じゃない。“観られる”ことを前提にした演奏が始まる。
それはつまり、誰かの心を揺らすことに本気になるってこと。

  • 「覚悟を決めろ!」/サバシスター:桃の叫ぶような歌声に、演奏の意味が宿る。
  • 「American Idiot」/Green Day:「やりたいことを、やりたいままにやる」その反骨が痛快。
  • 「死ぬまでに俺がやりたいこと」/ヤングスキニー:それぞれの“夢”が、この歌に乗って放たれる。

5〜6巻の魅力は、“音楽って自由だ”という肯定感。
大人の評価も、校則も、先輩の目も関係ない。今、この瞬間に「音を鳴らす理由」があるってことが、画面から響いてくる。

さらにこの章では、音楽が“誰かを救う”可能性も描かれていた。
聞いていたのは観客だけじゃない。演奏している彼女たち自身が、最も音に救われていたのかもしれない。
痛みも、迷いも、全部ひっくるめて叫ぶ——それがバンドという“生き方”になる。そう感じさせるエピソードが、ここには詰まっている。

キャラとシーンで読み解く|心に刺さる“名曲”たち

『ふつうの軽音部』の魅力は、単に曲が「登場する」ことではなく、キャラの人生に音楽が入り込んでくること。
ここでは、主要キャラクターたちと楽曲との“結びつき”に注目し、それぞれの心に宿った音の意味を読み解いていく。

鳩野ちひろ × 「everything is my guitar」

誰にも見せなかった“本音”を、彼女はギターで弾いた。鳩野ちひろの原点は、この曲にある。

彼女がこの曲を奏でたのは、誰もいない夜の視聴覚室。そこには拍手も歓声もない。
だけどその静寂こそが、鳩野ちひろというキャラを深く照らしていた。

「everything is my guitar」は、音楽が彼女の“居場所”であり、心の翻訳機であることを示してくれた一曲。

誰かとバンドをやる以前に、彼女にとって音楽は「声の代わり」だった。
言葉では言えない痛みや希望を、ギターと歌に託す姿は、この作品の“始まりの衝動”として読者の胸に刻まれる。

このシーンは、静かで地味だけど、とても尊い。
自分の感情を、初めて“音”というかたちで誰かに見せた瞬間——そんな記憶がある人には、きっと響く場面だ。

そしてそれは、彼女が“誰かと生きる”ための第一歩でもあった。黙っていても、音なら繋がれる。そう信じる力が、ここに芽生えた。

内田桃 × 「拝啓、少年よ」

桃というキャラクターは、常に明るく、場を和ませる存在だ。だからこそ、この曲の選択が心を揺さぶる

桃がカラオケでこの曲を選ぶシーンは、意外性と納得感が同居している。
普段はふざけたことばかり言ってる彼女が、真っ直ぐなメッセージソングを選んだという事実に、静かな重みがあった。

「拝啓、少年よ」は、“自分で決めて、自分の足で立つ”という覚悟の歌。
それを叫ぶように歌う桃の姿は、明るくて、眩しくて、でも少しだけ切ない。

彼女は弱さを隠すのが上手い。でも音楽の中では、素のままの想いが表に出てくる。
そのギャップに、読者は「この子、ちゃんと強いんだな」と思わされる。

あのワンフレーズを歌い切るたびに、彼女は“冗談の仮面”を一枚ずつ脱ぎ捨てていたのかもしれない。
音楽の中の彼女は、誰よりも“まっすぐ”だった

幸山厘 × 「透明少女」

厘の選曲は、静かな“自己紹介”だった。音を通して、彼女は自分を言葉にした

静かな川辺。エレキ一本。厘の弾き語りは、まるで自分と向き合う“儀式”のようだった。
選んだ曲は、ナンバーガールの代表曲「透明少女」。
この選曲がもう、彼女の心象風景そのものだと思う。

輪郭が曖昧で、存在が浮いてしまうような感覚。
それを肯定するように響く“透明”な音は、厘が自分を受け入れる第一歩だったのかもしれない。

読者の中にも、「わかる、わかる」と涙ぐんだ人がいたはず。このシーンは、そっと寄り添ってくるような優しさがある。

音楽が、彼女の居場所を照らしてくれたのだ。
誰にも見つけられなかった“自分自身”の輪郭を、音が救い出してくれる感覚。
それは、静かで確かな“再生”だった。そして、「自分にも音が鳴る」ことに気づくという、静かな奇跡でもあった。

文化祭ライブ × 「UFOを呼ぶダンス」

この作品の「最高到達点」はどこか? そう訊かれたら、僕はこのシーンを選ぶ。

『ふつうの軽音部』で最大級の“高揚”が描かれたのが、文化祭ライブでのこの一曲。
正直、演奏技術だけ見れば拙い。でも、その拙さすら愛おしくなるような“熱”がそこにあった。

るりるり帝国の「UFOを呼ぶダンス」は、名前からしてふざけている。
でも、観客もキャラも、誰もが「いまこの瞬間」を楽しんでいた。

青春って、完璧じゃなくていい。むしろ不完全なまま叫ぶからこそ響く
その真理が、このシーンには凝縮されていた。

一体感の輪に飛び込む勇気。笑われてもいい、届かなくてもいい。それでも叫んで、踊って、鳴らす。
このシーンが多くの読者に“涙と笑い”を与えたのは、自分の“痛み”も一緒にステージに上げてくれたからだ。

あの日鳴った音楽は、「ふつうの自分でも、誰かの心に届く」という、希望の証だった。

「バンドやろうよ」がくれたもの──“音”で繋がった関係性のかたち

バンドって、誰とでも組めるものじゃない。
でも、だからこそ「誰かと一緒に音を鳴らすこと」には、特別な意味がある。
『ふつうの軽音部』は、それをただの友情物語として描かない。“音楽”を介した関係性の距離感を、あまりにも丁寧に、リアルに描いている。

ここでは、「バンドをやる」とはどういうことか。その中で育まれた絆の輪郭を、3つの視点から見つめてみたい。
楽器の音が重なるたびに、すれ違いがほぐれていく。そんな奇跡のような関係性の形が、確かにこの物語にはあった。

すれ違いと衝突は、“音”でしか埋められなかった

軽音部の日常には、言葉にできないすれ違いがいくつもあった。
鳩野と項希、桃と厘、そしてるりと彩目。誰もが少しずつ「うまく話せない自分」に悩んでいた。

でも、沈黙を責める人はいなかった。
むしろその沈黙の向こう側に、音を通して届く感情があった。

セッション中のふとしたアイコンタクト、リズムが合ったときの小さな笑顔。
それはどんな長文のLINEよりも誠実で、どんな励ましの言葉よりも温かかった。

音を合わせること=想いを重ねることとして描かれているからこそ、会話よりも先に“音”で分かり合う描写が印象に残る。

「ごめん」も「ありがとう」も、うまく言えない。でも、「じゃあ、やるか」だけで伝わる気持ちがある。
それがこの作品の“人間関係のリアル”だった。

仲直りのきっかけは、言葉じゃなくリフだった。
その感覚、バンドをやったことがある人にはきっとわかる。

音は口下手な彼らの翻訳機であり、心の奥をそっと照らす懐中電灯でもあった。

“バンドをやる理由”が、少しずつ変わっていった

最初は「なんとなく面白そう」で始めたかもしれない。
でも物語が進むごとに、キャラクターたちの“音を鳴らす理由”が明確になっていく。

ちひろにとっては、誰かとつながること
項希にとっては、自分の中の苛立ちや寂しさを解放する手段。
彩目にとっては、「わかってもらえない」ことを恐れずに表現するための武器

音楽に“正解”がないように、動機もまた人それぞれ。
でも、同じ曲を一緒に演奏する中で、違う理由が響き合っていく——それがこの物語の美しさだった。

「バンドって、何のためにやるんだろう?」
その問いの答えは、ひとつじゃなくていい。むしろ、全員が違う理由を持ってるから、面白いのだ。

彼らの音が重なる瞬間、観客以上に一番救われていたのは、奏でている本人たちだったのかもしれない。

誰かと音を出すたびに、自分の存在理由がほんの少し輪郭を持つ。
“音”は彼らにとって、存在証明のようなものだった。

音楽が“関係性の再起動スイッチ”になっていた

文化祭前夜、るりと彩目の会話のシーンが忘れられない。
「私、あんたのこと、ちゃんと知ろうとしてなかったかも」
ぎこちないその言葉のあとに始まった練習には、すべてが込められていた。

うまく話せなくても、コードを合わせれば、やり直せる。
どんなに衝突しても、リズムを刻めば、もう一度並べる。

音を鳴らすことでしか、伝えられないものがある
この作品ではそれが繰り返し描かれる。気まずさも、怒りも、悲しみも、全部ひっくるめて、「一緒に鳴らす」ことで関係が修復されていく

バンドって不思議だ。言葉じゃなくて、コード進行で許しあえる世界。
ぶつかったことも、遠回りも、全部音楽の一部に変えてしまえる。

『ふつうの軽音部』は、その優しさを知っている人が描いた物語だと思う。
そして、それに救われた読者も、きっと少なくない

たとえ心が迷子になっても、音がまた繋げてくれる。
「バンドやろうよ」って、結局は「一緒にもう一度始めよう」って意味なのかもしれない。

今すぐ聴ける!配信サービス別プレイリスト情報

『ふつうの軽音部』を読み終えたあと、ふと“あの曲たち”をもう一度聴きたくなる瞬間がある。
物語のシーンとリンクして、音がより鮮やかに胸に響くからだ。

音楽は、記憶を呼び起こすだけじゃない。自分の中にまだ言葉になっていない“気持ち”を、そっと代弁してくれる

ここでは、作中で使用された楽曲や、モデルとなったバンドの曲など、「聴けば思い出が蘇る」ような音源を、主要な音楽配信サービスごとにまとめた。

“音”でもう一度、この物語に帰ってみよう。

Spotify|劇中曲モデル&ファンプレイリスト

Spotifyでは、ファンが作成した非公式プレイリストや、劇中使用曲の元ネタと思われる楽曲が豊富に揃っている。

たとえば文化祭直前、ちひろたちが不安と期待を背負いながら最後の練習に挑むシーン。
あの“背筋の奥がゾワッとする瞬間”を、Spotifyで改めて体験できる。

音を耳に入れるというより、「物語の続きを、音で聴く」ような感覚。
プレイリストを再生した瞬間、ステージの照明や汗のにおいまでも思い出される。

このプレイリストは、記憶と感情を同時に呼び起こしてくれる“鍵”だ。

きっとどこかで「自分の人生の1シーンに、この曲が重なってた」と気づくはず。

Apple Music|高音質で感じる“余韻の音”

Apple Musicでは、作中に登場した実在曲の多くをロスレス音質で楽しめる。
“音の余韻”まで大切にしたい人には、こちらがおすすめ。

特におすすめは、夜の静けさに包まれた部屋で一人聴くこと。
ちひろが一人、視聴覚室で音を鳴らすあの静寂——Apple Musicの音質は、それを忠実に再現してくれる。

まるで音の粒子が心に直接触れてくるような、そんな体験。
鼓膜ではなく、“感情の深部”で音を聴くという感覚に近い。

このプレイリストを流しながらページを読み返すと、文字と音の記憶が重なり合い、再び作品の中に帰っていく

疲れて帰ってきた日、そっと耳に流すと、今日の自分を肯定してくれるような優しさがそこにある。

YouTube|シーンの“空気ごと”思い出せる場所

YouTubeでは、曲そのものだけでなく、演奏している姿や空気感まで丸ごと届けてくれる

特に“拝啓、少年よ”をカラオケで歌う桃のシーンを思い出しながらライブ映像を見ると、「このキャラは本当に生きてるんだ」と錯覚するほどの没入感がある。

また、カバー演奏の映像には、原曲とは異なる“個人の表現”が宿っていて、それがまた『ふつうの軽音部』という作品のテーマと響き合う。

音楽は、記憶を再生するスイッチでもある
YouTubeはその最たる例だ。映像と音が重なったとき、物語の余韻がもう一度立ち上がる。

心に残っていた“読後感”が、音とともに輪郭を持ちはじめたとき、
この作品がくれたものの本当の意味に、もう一度気づけるかもしれない。

『ふつうの軽音部』が描いた、“ふつうじゃない青春”の輪郭

音楽を通して、人と出会い、衝突し、わかり合う——それはきっと、軽音部じゃなくても、バンドじゃなくても、本当は誰にとっても必要な体験なのかもしれない。

『ふつうの軽音部』が描いたのは、派手な奇跡でも、世界を救うようなスケールでもない。
だけどそこには、“ふつう”を生きる私たちが、ふと立ち止まったときに必要な何かが、たしかにあった。

心の中に棲みついた名前のないモヤモヤ、誰にも届かない気持ち、何かを始めたいのに言い出せない不器用さ。
この作品は、それらを否定しない。むしろ、「そんなままでいい」「そんな自分ごと抱きしめろ」と背中を押してくれる

一人ひとりのキャラが抱える孤独や不安は、どれも「共感できる何か」を持っていて、誰かの物語なのに、自分の感情に似ている
だからこそ、読後にふと“静かな涙”がこぼれる。

バンドという形を借りて、この物語はずっと「あなたにしか出せない音がある」と語りかけてくる。

“ふつう”じゃないって、すごいことだ。それに気づいたとき、人はやっと自分の人生を鳴らしはじめるのかもしれない。

あなたが、まだ言葉にならない何かを抱えているなら。
ぜひこの作品を読んでみてほしい。

そして、思ってみてほしい。
「バンドやろうよ」って言われたら、今度は何て答えようか。

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