「“ふつう”って、なんだろう──?」
この問いを、何度も心の中で反芻させる。『ふつうの軽音部』は、そんな“地味”な疑問を青春のバンド活動という舞台に乗せて、読者の心にそっと置いてくる作品だ。
2024年の連載開始からSNSで話題を呼び、2025年には次にくるマンガ大賞 Web部門 第1位をはじめとした、数々のマンガ賞を受賞。
「派手じゃないのに、泣ける」「自分の物語みたいだ」──そんな感想が溢れた理由を、今、あらためて言葉にしてみたい。
この記事では、『ふつうの軽音部』がなぜ多くの賞に輝いたのか、その背景と意味を深掘りしていく。
『ふつうの軽音部』が受賞した“理由”──評価されたのはどこか
受賞ラッシュとなった『ふつうの軽音部』。
ジャンルとしては“青春バンドもの”でありながら、そこにはただの音楽や友情だけでは語りきれない“今を生きるリアル”が詰まっていた。
このセクションでは、次にくるマンガ大賞をはじめとする各賞の選評や、SNS上の声をもとに、なぜこの作品が評価されたのか──その本質を掘り下げていく。
“ふつう”の尊さが時代に刺さった
「ふつうであること」は、かつては“凡庸”の意味合いを帯びていた。
でも今の時代、その“ふつう”を生きることこそが、一番難しい。
誰かみたいな成功も、バズる強烈な個性もない。それでも毎日を積み重ねている人たちの物語として、この作品は支持された。
2024年の「次にくるマンガ大賞」での受賞理由には、こう記されている。
“誰かの人生をそのまま代弁したような、等身大の物語。ふつうの毎日が、こんなにも愛おしいと気づかされました。”
この“等身大”というキーワードこそ、Z世代〜ミレニアル世代が今、作品に求めているものだ。
物語の登場人物たちは、特別じゃない。だが、特別じゃないからこそ、私たちにとって特別になる。
それが、今の時代に“ふつう”が評価された理由だ。
描かれたのは、共感を超える“追体験”
「わかる」ではなく、「思い出した」──。
読者がこの作品に抱いた感情は、共感というよりも「感情の再発火」に近い。
バンドメンバーのぎこちない会話。ライブに向けた曖昧な期待。練習帰りのコンビニ前での立ち話。
それらは、読者自身の青春の“断片”を再生させるように描かれている。
特に秀逸なのは、演奏シーンの“静けさ”だ。
盛り上がりや決めカットに頼らず、演奏中の空気や視線、汗ばむ手のひらにフォーカスすることで、視覚的な“温度”を感じさせる演出が際立つ。
まるで自分があの場にいたかのような錯覚を生む、それがこの作品の最大の強みだ。
受賞コメントから見る、作者の思想と意図
原作・クワハリ氏の受賞コメントには、こんな一文がある。
「“がんばらない青春”にも、ちゃんと価値があると伝えたかった」
この言葉が象徴するように、『ふつうの軽音部』は「努力」や「成長」という典型的な部活マンガの文脈を、意識的に裏切っている。
目指すのは、バンドの頂点でも、技術の到達点でもない。
それよりも、“やってみたい”という衝動を、誰かと分かち合えることの価値にフォーカスしている。
そしてその選択が、今の若者に深く刺さった。
強くならなくてもいい。変わらなくてもいい。ただ、「ここにいていい」と思える瞬間が、何よりも尊かった──。
その思想が、作品全体ににじみ出ていたからこそ、数々の賞はこの作品を選んだのだろう。
静かな衝撃──『ふつうの軽音部』が読者に与えた“感情のゆらぎ”
『ふつうの軽音部』を読んだ人が最初に感じるのは、“なんか、泣けた”という不思議な実感だろう。
盛り上げようとする演出も、わかりやすい感動シーンもない。なのに、心の奥底がゆっくり揺さぶられる。
この作品が多くの読者に届けたのは、“興奮”でも“感動”でもなく、じんわりとにじむ“共鳴”だった。
ここでは、そんな“静かな衝撃”が生まれた構造を、キャラクター、音楽描写、居場所の設計という三つの観点から掘り下げていく。
鳩野ちひろという“主人公になれない主人公”
鳩野ちひろは、主人公としては“物足りない”存在だ。
物語の序盤では、強い意志も目標も持っていない。ギターを始めた理由すら、“なんとなく”に近い。
だがそれこそが、この作品の本質を物語っている。
現代の読者──特に10〜20代の読者は、“夢を持たなきゃいけない”という空気に、少し疲れている。
だからこそ、「強くなくても主人公でいられる」ちひろの姿は、読者自身を映す鏡のように映るのだ。
特筆すべきは、彼女の成長が“劇的”ではなく“じんわり”であること。
ある日を境に劇的に変わるのではなく、小さな選択と失敗の積み重ねによって、少しずつ自分を受け入れていく。
ちひろは、“なれなかった何か”を抱えたすべての人の、優しい代弁者だ。
音楽が“叫び”ではなく“つぶやき”になる瞬間
多くの音楽マンガでは、演奏は“爆発”として描かれる。
でも『ふつうの軽音部』では、音楽が“叫び”ではなく“つぶやき”になる。
それは、誰かに届かなくてもいい、自分自身に語りかけるような音だ。
作中の演奏シーンでは、観客の歓声や照明よりも、手の震え、まばたきの回数、部室の空気感にフォーカスがあたる。
そこにあるのは、“感動の押しつけ”ではなく、“感情の余白”だ。
そして読者は、その余白の中に、自分自身の記憶や感情を差し込む。
音楽の“正解”や“うまさ”よりも、「何を込めたか」がすべて──。
そう教えてくれる、静かで力強い音が、この作品には流れている。
バンドという場所がくれた、“居場所じゃない居場所”
“バンド”は、単なる活動ではなく、誰かと“曖昧なつながり”を持つための装置として機能している。
『ふつうの軽音部』のメンバーたちは、仲がいいようでそうでもなく、ぶつかるほど近くもない。
だが、そんな微妙な関係性だからこそ、「傷つけない」距離感が保たれている。
特に印象的なのが、メンバー同士のやりとりの“温度”。
直接的な言葉ではなく、リハ後の沈黙、帰り道の並び順、差し入れの飲み物──そんな“言外”の描写が、つながりの深さを表現している。
このバンドは、「心を開ける場所」ではなく、「閉じたままでもいられる場所」なのだ。
読者にとって、それは“理想”ではなく、“現実にあってほしかった居場所”。
この“居場所じゃない居場所”のリアリティが、多くの共感を呼んでいる理由だ。
なぜ“音楽マンガ”なのにここまで響いたのか──物語設計の妙
『ふつうの軽音部』は、たしかに“音楽マンガ”だ。
けれど、その構造をよく見てみると、音楽そのものよりも“感情の機微”や“空白の時間”を描くことに重心が置かれている。
王道の“音楽モノ”と違う設計──そこに、この作品ならではの“響き方”の秘密がある。
この章では、構成・演出・省略という3つの視点から、その物語設計の妙を解き明かしていく。
“ライブ”よりも“練習”に時間を割く物語構造
多くのバンド漫画にとって、“ライブ”は物語のハイライトだ。
しかし『ふつうの軽音部』では、ライブそのものがクライマックスにはならない。
むしろ読者が長く付き合わされるのは、地味で孤独な“練習”のシーンだ。
毎日同じ場所で、同じコードを鳴らす。
誰にも褒められず、音もうまくならず、焦りだけが増していく。
でも、その“できなさ”の描写こそが、読者の記憶を呼び覚ます。
部室で鳴るアンプの音、誰かのミスで止まる演奏、目を合わせずに交わす会話──それらは、青春そのものだ。
この作品は、“輝く瞬間”よりも“積み重ねの時間”を描くことで、物語に持続的な共鳴を与えている。
セリフよりも“間”で語る演出設計
『ふつうの軽音部』には、“名セリフ”と呼べるような印象的な台詞は少ない。
それは意図的に、セリフ以外の情報──間、視線、空気に語らせる設計が採られているからだ。
特に印象深いのは、言葉に詰まったときの“余白”。
否定も肯定もされないまま、話が流れていく。その曖昧さが、読者の記憶にある“あの感じ”を呼び起こす。
この“間”の設計は、音楽マンガとしては異質だ。
本来、音楽は音で語るジャンルのはずなのに、この作品では“音を鳴らさないこと”が最も雄弁に語ってしまう。
その静けさが、読者の感情の奥を震わせる鍵になっている。
描かれなかったものが、感情を揺らす
この作品では、あえて描かれない“空白”がとても多い。
例えば、ライブシーンの全カットはなく、演奏の一瞬しか描かれないこともある。
キャラ同士の喧嘩や和解も、直接的には描かれず、後日談や仕草でしか示されないことがある。
この“省略”の手法が、読者の感情を逆に大きく揺さぶる。
なぜなら、描かれなかった部分を補完するのは、読者自身の記憶や経験だからだ。
マンガを読むという行為が、“受け取る”だけでなく“思い出す”行為にもなる──
その“没入感の二重構造”が、この作品に深みを与えている。
描かれないからこそ、見えてしまう。
語られないからこそ、伝わってしまう。
その設計の妙が、この作品を音楽マンガの枠を超えた“心の物語”にしている。
まとめ──“ふつう”という物語が、誰かを救う
『ふつうの軽音部』が受賞した理由を、これまでいくつかの観点から紐解いてきた。
“目立たない”“強くない”“特別じゃない”──そんな言葉が似合う物語が、なぜこれほど多くの人の心を掴んだのか。
それはきっと、この作品が描いたのが“理想の青春”ではなく、“あったかもしれない自分の物語”だからだ。
ライブの爆発ではなく、練習の停滞。
叫びではなく、つぶやき。
仲間ではなく、ただそばにいる誰か。
そのすべてが、私たちの中にある“記憶の原風景”と静かにリンクしていく。
そして何より、『ふつうの軽音部』が届けてくれたのは、「このままでいいんだ」と思わせてくれる感情だった。
がんばりすぎなくてもいい。夢がなくても、音が外れても、うまく言葉が出なくても、それでも音楽は鳴らせる。
この作品は、そんなやさしさを、まるでギターのコードのように丁寧に鳴らし続けてくれた。
この記事が、まだ読んでいない誰かの背中をそっと押し、すでに読んだ人の中にある感情を、もう一度鳴らすきっかけになれば、それ以上に嬉しいことはない。
ふつうであることを、誇っていい時代に──。
その確かな一歩を、この作品は私たちにくれた。
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