“エルレっぽさ”を感じたのは、気のせいじゃなかった。
『ふつうの軽音部』の音楽と物語には、2000年代に青春を過ごした多くの人の心に刺さった、ELLEGARDENのエモーションが、確かに息づいている。
「疾走感」「叫び」「不器用なやさしさ」──それは、バンドという場所でしか表現できなかった感情であり、だからこそ、今も誰かの胸を焦がす。
この記事では、『ふつうの軽音部』のなかに宿る“エルレ”の精神を、音・セリフ・キャラ描写からひもときながら、その交差点を浮かび上がらせていく。
『ふつうの軽音部』に“ELLEGARDEN”を感じた瞬間
読んでいると、ふと「これ、エルレみたいだな」と感じる瞬間がある。
それは単なる音楽的影響ではなく、“感情の爆発のさせ方”や“言葉の届き方”が似ているからかもしれない。
この章では、作品内に散りばめられた“エルレ”の気配を丁寧に拾い上げながら、なぜそれが心を打つのかを考えてみたい。
1.「everything is my guitar」に宿る“風の日”の切なさ
たまき先輩の引退ライブで披露される「everything is my guitar」。
この曲の響きに、「ELLEGARDENの『風の日』を思い出した」という声がSNSでも多く見られた。
どちらの楽曲にも共通しているのは、届かなかった誰かへの後悔と、それでも前に進もうとする決意だ。
ギターのストロークが胸を打つのは、音の強さだけではなく、その裏にある“言えなかった言葉”の余韻にある。
「everything is my guitar」は、“叫び”ではなく“語りかけるような切なさ”で、心を揺らしてくる。それがエルレ的なのだ。
さらに注目すべきは、たまきの声質と、あの楽曲の“温度感”だ。エルレの「風の日」もそうだが、心の奥にある本当の気持ちを、静かに差し出すような感覚がある。
大げさな表現よりも、余白にこそ本音が宿る。そのニュアンスを、たまきというキャラクターは音にしてしまう。
あのライブが胸を打つのは、演出の力だけじゃない。彼女自身が「ELLEGARDENの曲のような気持ち」を選び取っていたからこそなのだ。
2.叫びではなく“衝動”を重ねる──エルレ的バンド感の表現
『ふつうの軽音部』のバンドシーンは、どれも不器用で、でもどこまでも真剣だ。
リズムが合わなくても、音が外れても、それでも“やりたい”という気持ちが先にある。
これはまさに、ELLEGARDENが鳴らしてきた「衝動の音」そのものだ。
整っていない、だからこそリアルで、美しい。
彼女たちの演奏には、“未完成”のままぶつかる勇気が宿っていて、それがELLEGARDENの精神性と重なる部分なのだと思う。
特に印象的なのは、りんがドラムで感情を爆発させる場面だ。
彼女のビートには、言葉にできない想いが詰まっている。
これはELLEGARDENの「Salamander」にも通じる。
リズムが言葉を超えて何かを語る──その瞬間、人は“音楽”という方法でしか伝えられないものに触れる。
作中の演奏シーンが心を打つのは、技術ではなく、“どうしても伝えたいもの”を音にしているからだ。
3.たまきの瞳に映るロック──ELLEGARDENとキャラクターのシンクロ
たまきというキャラは、一見クールで大人びている。
でも、彼女の“ロック”は決して突き放すものではなく、誰かをそっと押し出すようなやさしさでできている。
ELLEGARDENのボーカル細美武士も、MCではよく「歌えなかった日」の話をする。
音楽はいつも強くはない。でも、その“強くなれなかった日々”も音にしてきたのがエルレであり、たまきが背負っていた“ふつうであろうとした痛み”にも通じる。
彼女のラストライブは、ELLEGARDENでいえば「Missing」みたいな、未練と希望が同居したエンディングに近いかもしれない。
また、たまきが後輩たちに託した“何か”は、細美が後続のバンドに託した“精神”とも重なる。
過去に何があったとしても、それでも「続けろ」と言える優しさ──その眼差しはロックであり、どこか祈りのようでもある。
“叫び”ではなく“背中”で語る。それが、彼女が鳴らしたELLEGARDENの声だった。
ELLEGARDENが描いてきた“バンドの不安定さ”と、物語のリンク
ELLEGARDENが歌ってきたのは、ただの“バンドのかっこよさ”じゃない。
その中心にはいつも、壊れそうな関係性や、届かない気持ちがあった。
『ふつうの軽音部』の物語もまた、音楽だけでなく“人間関係の揺れ”を描いている。
この章では、ELLEGARDENの精神性と作品のキャラクターたちの関係性を照らし合わせながら、「なぜ心に刺さるのか」を掘り下げていく。
1. ELLEGARDENにおける「4人のバランス」と『ふつうの軽音部』の人間関係
ELLEGARDENは4人組バンドとして、音の“バランス”と人の“距離感”を大事にしていた。
バンドメンバーが近すぎても壊れるし、遠すぎても一体感が出ない。
細美武士がたびたび語っていたのは「いい距離感のまま続けたかった」という想いだった。
それは“いつか終わるかもしれない”という不安とともにある、儚い希望だ。
『ふつうの軽音部』でも、りん・たまき・はるひの3人は微妙な距離感を持ちながら共存していた。
一緒にいたいけど、近づきすぎると怖い。
たまきの卒業という“終わり”が決まっている中での音楽活動は、まるで“バンドの寿命”と向き合っているようだった。
そう考えると、彼女たちの関係性そのものが、ELLEGARDENの4人とシンクロしているように感じられる。
2. 崩れそうな関係を音で繋ぐ──「叫び」の奥にある優しさ
ELLEGARDENの歌詞には、よく「怒り」や「叫び」が登場する。
でも、それは単なる激情じゃなくて、どうしようもない寂しさの裏返しだったりする。
たとえば「Missing」は、失ってからじゃないと気づけなかった気持ちを歌った曲だ。
そしてその言葉の奥には、「ちゃんと大事にしていた」という、見えないやさしさがある。
『ふつうの軽音部』でも、言葉でぶつかる場面がいくつかある。
特に、はるひがりんに感情をぶつける場面や、たまきの卒業に対する葛藤には、言えなかった想いが詰まっている。
でも、最終的に彼女たちは“音楽”でしか繋がれなかった。
それはELLEGARDENが“音”でしか本音を言えなかったのと、どこか似ている。
音楽は、壊れかけた関係に「まだ終わってないよ」と語りかける手紙だったのだ。
3. 音楽は“絆の証明”になれるのか──たまき・りん・はるひの三角構造
たまき・りん・はるひという三人の関係は、バンドとしてだけではなく、“人として”も揺れていた。
好きとか、嫌いとか、そういう単純な言葉で説明できない微妙な感情が渦巻いている。
それでも彼女たちは「音楽をやる」という選択をした。
それは、音楽が絆の証明になると信じたからだ。
ELLEGARDENもまた、活動休止を経て、それでも再結成する道を選んだ。
表面的な関係は崩れても、「一緒に音を鳴らした記憶」が残っていれば、また繋がれる──その希望が彼らの復活を支えたのかもしれない。
たまきが卒業しても、バンドが終わるわけじゃない。
残された音は、これからも3人を繋ぎ続ける。
『ふつうの軽音部』は、“絆”を言葉ではなく音で証明する物語だったのだ。
なぜ“エルレ”がこの物語に必要だったのか
ELLEGARDENというバンドが、『ふつうの軽音部』という物語に溶け込んでいたのは偶然じゃない。
それはオマージュや影響という表面的な話ではなく、“この物語を成り立たせる感情の核”として、エルレが必要だったのだ。
この章では、その理由を、世代性・感情設計・思想性という3つの視点から掘り下げていく。
1. エモーショナルの系譜──2000年代バンドがZ世代に託したもの
ELLEGARDENがシーンを駆け抜けたのは、2000年代前半。
その音楽をリアルタイムで聴いていた世代は、今や親になったり、社会で疲弊したりしている。
でも、そのときに受け取った“衝動”や“叫び”は、どこかで次の世代に渡される。
『ふつうの軽音部』の登場人物たちはZ世代だが、その中に確かに「2000年代エモの残響」が流れている。
たとえば、言葉にできないまま心に残った想いを、ギターやドラムで表現しようとするあの感じ──それはまさに、エルレが教えてくれた“音で語る”という行為に他ならない。
そしてそれは、単なる音楽性ではなく、文化のリレーだ。
たまきたちは、エルレの楽曲を知らないかもしれない。けれど、あの時代に生まれた音楽の“生き方”は、世代を超えて届いている。
『ふつうの軽音部』が“新しいのに懐かしい”と感じるのは、そのエモーショナルな系譜を自然と継いでいるからなのだ。
2. ELLEGARDENを知らなくても“伝わる”感情設計
この作品がすごいのは、ELLEGARDENというバンドの名前を知らなくても、“エルレ的な感情”がちゃんと伝わることだ。
それは、音楽を通じて語られる“逃げたくても逃げられない現実”とか、“踏み出すしかない瞬間”の描き方が似ているから。
たまきが背中を向けて歌うあのシーンは、まるで細美武士がマイクスタンドから一歩引いて、叫びを吐き出す瞬間のようでもある。
“説明しすぎない”こと。
“言葉の間”にある余白を、観ている側に委ねること。
そうした表現方法が、『ふつうの軽音部』とELLEGARDENの共通点だ。
読者や視聴者は、その“余白”に自分の想いを重ねる。
だから、この作品は“誰かの物語”であると同時に、“自分の記憶”にもなる。
ELLEGARDENの曲がそうだったように。
3. 「ふつう」であることは、諦めじゃない──ELLEGARDEN的“選択”の意味
たまきというキャラクターは、常に「ふつうでいること」に悩んでいた。
特別じゃなくてもいい。でも、何も残らないのは嫌だ。
この葛藤は、まさにELLEGARDENが歌ってきた感情そのものだ。
「特別になれなくても、あなたはあなたでいいんだよ」と、細美の歌声はいつも語りかけてくれた。
『ふつうの軽音部』が描いたのは、“ふつう”という名前の青春だった。
光らなくても、売れなくても、ライブが伝われば、それでいい。
そんな選択が、この物語には何度も登場する。
それは敗北じゃない。むしろ、自分自身の輪郭を取り戻すための戦いなのだ。
ELLEGARDEN的な感性は、そうした“諦めない姿勢”を、音ではなく人生で鳴らしている。
だからこそ、たまきたちのラストライブには、あんなにも深い説得力があったのだ。
『ふつうの軽音部』に響くELLEGARDENの声を、もう一度聴くために
音楽って、不思議だ。
名前を知らなくても、時代を知らなくても、“気持ち”はちゃんと届いてしまう。
ELLEGARDENの音が、たまきたちの演奏に宿っていたように──『ふつうの軽音部』という物語は、過去の音楽と未来の感情をつないでいた。
この作品にとって“エルレ的”であることは、かっこよさのためじゃなかった。
叫びきれない感情、続けることの怖さ、そして何より、“ふつう”でいることの尊さを、音楽という手段で伝えたかったのだ。
たまきの声、りんのドラム、はるひの視線。どれも不器用で、でもまっすぐで、ELLEGARDENが鳴らしてきた“痛みの奥の優しさ”と重なっていた。
音楽が人を変えるとは限らない。
でも、“あの日の感情”をもう一度取り戻すことはできる。
そしてきっと、あのラストライブを見た私たちは、それぞれの胸の中で「風の日」や「Missing」を再生したはずだ。
『ふつうの軽音部』が教えてくれたのは、「誰かに届く音」があるということ。
そして、ELLEGARDENが証明してくれたのは、それが“ふつうのまま”でも、ちゃんと美しいということだった。
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