『ふつうの軽音部』のリンダリンダが刺さる理由──Z世代の心に届く、叫びと不器用のバランス

ふつうの軽音部

『ふつうの軽音部』第40話で鳩野が歌った「リンダリンダ」。それはただの懐メロ選曲ではなかった。なぜこの楽曲がZ世代に響くのか──そこには、叫びたくても叫べない“ふつう”の若者たちの痛みと、感情の不器用さが重なっている。本記事では、『ふつうの軽音部』における「リンダリンダ」の役割を、楽曲背景・キャラクター描写・Z世代の共感軸から読み解いていく。

『ふつうの軽音部』で描かれた「リンダリンダ」の衝撃

『ふつうの軽音部』第40話「片鱗を示す」で、主人公・鳩野ちひろがアカペラで歌ったのは、THE BLUE HEARTSの名曲「リンダリンダ」。その瞬間、物語の空気が一変する。静かな日常が破られ、“叫び”が空間を支配する。この演出は、単なる楽曲の引用ではない。「不器用なままで声をあげる」という、鳩野の存在そのものを象徴する行為だった。

アカペラで叫ぶ鳩野──40話の名シーンを振り返る

この回の山場は、鳩野がギターを構えることなく、アカペラで「リンダリンダ」を歌うという決断にある。音楽という“武器”を手放した彼女は、丸腰のまま、ただ感情だけで戦った。それは、バンドという居場所で、ようやく“自分の声”を見つけた少女の、第一声だったのだ。

歌い出しは不安定で、震えている。それでも止めない彼女の姿に、聴く側の胸が締めつけられる。完璧じゃないからこそ、伝わる。そしてそれは、読者自身の「何者でもなかった時代の記憶」に火をつける。

ブルーハーツのMV再現?演出の狙いと意図

読者の間で話題になったのが、このパフォーマンスが「THE BLUE HEARTSのMVをオマージュしている」という点だ。鳩野の表情、カメラアングル、髪の揺れ──すべてがMVの映像を彷彿とさせる。こうした演出の裏には、「リンダリンダ」そのものが持つ衝動性と、作品世界を接続させようという制作側の意志が読み取れる。

ブルーハーツは、理屈よりも“感情の爆発”で勝負していたバンドだ。そんな彼らの楽曲を、自己否定に苦しむ鳩野が選び、全身で表現したこと。そこには、ただのカバーではない、物語と時代の対話があった。

音楽が言葉を越える瞬間──読者のSNS反応から

このシーンは、公開直後からX(旧Twitter)で大きな反響を呼んだ。

「鳩野の“泣きそうで泣かない”顔が、もうブルーハーツだった」

という投稿は1万RTを超え、作品を知らない層にも「何があったのか」と興味を持たせた。

また、「歌がうまいとかじゃなくて、“伝えたい”って気持ちが爆発してて泣いた」という声も多く、技術よりも“叫びの純度”が評価されていたのが印象的だ。まさに、音楽が言葉を超える瞬間。それを描けたことが、この作品の凄みだと思う。

一部のファンの間では「リンダリンダ回」とまで呼ばれ、作品の中でも屈指の名場面として語り継がれている。音楽と漫画が交わることで、鳩野の“声”は現実世界にまで届いたのだ。

なぜ「リンダリンダ」がZ世代に刺さるのか

昭和のパンクロックが、令和の青春に突き刺さる──そんな現象が、『ふつうの軽音部』によって可視化された。「リンダリンダ」は、Z世代の感性とは遠く思える1987年の楽曲だ。それでも、いや、それだからこそ、鳩野の叫びに重なる形で響いたのだろう。ここでは、“なぜ今リンダリンダなのか”を感情・文化・時代の3軸で掘り下げていく。

叫びと不器用──現代の若者が抱える感情のリアリティ

Z世代は、言葉をたくさん持っているようで、実は「本音」に関しては極端に慎重だ。SNSやメッセージアプリでのやりとりが中心となった今、ストレートな“叫び”はむしろ希少な表現になった。だからこそ、鳩野が震える声で「リンダリンダ」を歌ったとき、それは“自分ではうまく言えなかった気持ち”の代弁のように響いたのだ。

不器用なままで、誰かに何かを伝えたい。それは時代を問わず変わらない。でも今は、「上手く言う力」や「共感される表現力」が可視化され、競われる。鳩野はそんな時代のなかで、上手くなくても言葉を絞り出した。その姿が、Z世代の「素直になれない自分たち」の鏡となったのだ。

SNS全盛の時代に“ストレート”が新しい理由

「リンダリンダ」の歌詞は、今のポップスに比べてあまりにシンプルだ。「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」──この一文に込められた、意味を超えたエネルギーが、Z世代にはむしろ“斬新”に響く。

SNS時代の歌詞は、比喩や多層的な表現が好まれる。でも、鳩野が選んだのは、“全部まっすぐぶつける”言葉だった。誰にも届かないかもしれないけど、それでも叫ぶ。その姿勢が、「いいね」や「バズ」を狙う投稿に慣れた私たちの心に、逆説的に刺さったのではないか。

ストレートな表現に“今っぽさ”が宿る──これは皮肉でもなんでもなく、感情が飽和した現代において、もっとも誠実なコミュニケーションの形かもしれない。

「愛じゃなくても君を離しはしない」歌詞が示すもの

この歌詞は、“好き”の定義にこだわる現代に、ある種の解放をもたらす。Z世代は、「好きってなに?」「恋愛感情ってどう区別するの?」と悩むことが多い。そんな時代に、「愛でも恋でもなくても、離したくない」という想いは、カテゴライズを超えた真情として響く。

またこのフレーズは、「自分が誰かにとって特別であっていいんだ」という許可証のようでもある。鳩野がこの歌詞を全力で放ったことで、読者のなかにも「私は私のままでいい」という感覚が生まれた。それは、まさに“感情の再起動”だ。

こうして「リンダリンダ」は、昭和のパンクからZ世代の心へと、時代と感情を超えて届いたのだった。

『ふつうの軽音部』が持つ音楽的リアリティと演出力

漫画において「音楽を描く」という行為は、常に難題だ。音が聞こえないという制約のなかで、いかに“音楽が鳴っているように”感じさせるか──それは作家のセンスと表現力が問われる領域である。楽器の音色、リズム、声の震え、熱量。それらを文字と絵だけで伝えるには、何かが“乗って”いなければならない。

『ふつうの軽音部』は、この困難を“実在の楽曲”という手法を通じて乗り越え、紙面に「音の体温」を持ち込んだ。この章では、その演出力と音楽的リアリティの正体に迫っていく。

実在楽曲の力──「物語×音楽」の親和性

『ふつうの軽音部』が大切にしているのは、“音楽がすでに持っている文脈”を物語に重ね合わせることだ。つまり、読者がすでに知っている曲を用いることで、セリフ以上の情報を届けている。鳩野が歌う「リンダリンダ」は、その筆頭だろう。

あのイントロを思い出すだけで、何かが始まる気がする。それは、読者の経験や記憶に直結しているからだ。物語の中で曲を“演奏”させるのではなく、読者の心の中で“再生”させる。それが、作品と楽曲の理想的な共鳴の形なのかもしれない。

SNS上でも「鳩野の歌う“リンダリンダ”が頭から離れない」といった感想が多く見られた。読者にとっての“記憶のスイッチ”を押したのだ。

音楽の引用で“体温”を伝えるという手法

実在の楽曲を使うという選択は、単なるリアリティ演出以上の意味を持つ。読者が“知っている”曲だからこそ、その楽曲に込められた体温ごと受け取ってしまうのだ。ブルーハーツの歌には「うまさ」よりも「気迫」がある。それを、鳩野がアカペラで再現した瞬間、読者は「これはフィクションではない」と直感する。

また、音楽の“ずれ”や“歪み”までもが表現されている点も見逃せない。彼女のリンダリンダは、決して完璧ではない。むしろ震えていたし、音程だって怪しい。それでも伝わるものがある。そこに、“演奏”ではなく“叫び”としての音楽があった。

なぜこのタイミングで「リンダリンダ」だったのか?

多くの読者が疑問に思ったであろう、「なぜ今リンダリンダなのか?」という問い。作中では、特に説明がなされない。だが、それこそが演出としての巧妙さだ。理由が語られないことで、読者は“鳩野自身の衝動”として受け取るしかなくなる。

Z世代にとって、「リンダリンダ」は時代遅れの曲かもしれない。それでも選ばれたという事実が、「共感」ではなく「直感」でつながった証だ。自分でも理由はわからない。でも、これしかない。そういう選択をしてしまう瞬間に、人は一番本気になれる。

ちなみに、他作品でここまで“歌詞の意味”がキャラの感情とリンクしている例は意外と少ない。『ふつうの軽音部』は、選曲の意義がキャラの“内なる叫び”と完全に合致している稀有な作品だ。

「今リンダリンダを歌う意味」は、読者が物語を読みながら自分の中で答えを見つけるものなのかもしれない。その余白の多さが、この作品の美しさだ。

リンダリンダの再評価とブルーハーツの現在地

2020年代、Z世代にとって「リンダリンダ」は過去の曲だった──はずだった。だが『ふつうの軽音部』によって、その評価は再び熱を帯び始める。“名曲”が再び“今の感情”として鳴り響いた瞬間、リンダリンダはふたたび「青春の歌」になった。ここでは、その再評価の軌跡と、ブルーハーツというバンドの今を重ねていく。

Z世代による“懐かしさ”の再解釈

Z世代は、90年代以前の音楽を“懐かしい”というより、“逆に新しい”という視点で再解釈する傾向がある。SpotifyなどのサブスクやTikTokでは、時代を超えた曲が「エモい」として拡散される現象が当たり前になっている。

そのなかでも「リンダリンダ」は、叫ぶようなボーカル、シンプルな歌詞、無骨なサウンドが、“作り込まれた共感”に疲れたZ世代の耳に新鮮に響いた。皮肉にも、あまりにストレートすぎるその叫びが、現代においては最も“尖った”感情表現に映ったのだ。

鳩野の歌う「リンダリンダ」がSNSで拡散されたことで、ブルーハーツの楽曲は新たな“発見”として広まり、プレイリストやショート動画で若年層に浸透していった。それは再評価というより、再接続だった。

楽曲の再生数増加とMVの再注目

『ふつうの軽音部』第40話公開後、X(旧Twitter)やYouTubeでは「リンダリンダ」の公式MVの再生数が急増した。

「鳩野のシーンがMVと完全に重なった」「同じアングルじゃない?」

などの投稿が広まり、視聴の“文脈”が生まれたのだ。

さらに、Apple MusicやSpotifyのランキングにも微細な変化が現れた。リンダリンダが突如、若年層中心の“懐かしJ-ROCK”プレイリストに入り始めたのだ。作品をきっかけに曲が動き、曲が読者の記憶と結びつき、また作品を読みたくなる。この“循環”こそ、コンテンツが時代を越えるときに生まれる構造である。

MVのコメント欄にも、「ふつうの軽音部きっかけで聴きました」「今でもこんなに刺さるんだ…」という声が増え、まさに「物語が音楽を再起動させた」現場が広がっている。

サブカルから主流へ──時代を超えた訴求力

ブルーハーツはかつて、“売れたけど売れてない”バンドだった。テレビ露出は少なく、CMとも無縁。それでも口コミと熱量で広まり、今では“知る人ぞ知る”を超えて、“みんなが知ってるけど、なぜか一人で聴いていた記憶”を持つバンドとなった。

そして2020年代、彼らの音楽は“サブカル的な孤独”から、“共有できる感情資産”へと昇華している。鳩野のアカペラは、その象徴だ。あれはブルーハーツの再演ではない。Z世代による“再定義”だった。

ブルーハーツという存在は、もう「過去の名曲」ではない。鳩野が叫んだ「リンダリンダ」は、Z世代にとっての「今の歌」になった。その変化を生んだのは、物語だった。物語が歌を未来に連れていく。その現象を、私たちは目撃したのだ。

不器用でも、歌える。──『ふつうの軽音部』がくれた言葉

「うまく言えないこと」が増えた。気持ちを言葉にすると空回る気がして、黙ってしまう。そんなZ世代の“沈黙”に対して、『ふつうの軽音部』は「叫んでもいい」と背中を押してくれた。リンダリンダは、鳩野ちひろだけの曲ではなく、感情を抱えた誰かの、代わりに叫んでくれる曲になった。

不器用な声が、こんなにも真っ直ぐ届くなんて。鳩野のアカペラは、技術ではなく“気持ち”で奏でられた演奏だった。だからこそ、言葉以上に「伝わった」のだろう。

作品を通じて再評価された「リンダリンダ」は、音楽というより「感情の結晶」のように機能していた。ストレートであること。叫びであること。その“誤魔化しのなさ”が、SNS時代の読者にとってはむしろ魅力になった。

鳩野が選んだのが「リンダリンダ」であったことには、たぶん理屈を超えた直感がある。時代のズレすら飛び越えて、“この曲じゃなきゃダメ”という一瞬の感情。それを信じた彼女の決断が、私たちの感情を揺らした。

そして読者の多くが、彼女の姿を見て少し勇気をもらったはずだ。「うまくやらなくても、真剣になっていい」。それは誰かに許してもらうものではなく、自分に許可を出すということ。その一歩を、鳩野が先に踏み出してくれた。

“ふつう”の軽音部が、“ふつう”じゃないものを教えてくれた。その逆説の中に、私たちは自分の言葉を探すのかもしれない。

最後に、あらためてこの言葉を送りたい──

「愛じゃなくても恋じゃなくても、君を離しはしない」

この曲が持っていた本当の意味を、ようやく私たちは知ることができたのかもしれない。

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