「ふつう」って、なんだろう。
ふつうの恋、ふつうの高校生活、ふつうの軽音部──。
でも、『ふつうの軽音部』の世界には、その「ふつう」の皮をかぶった、どうしようもないほど“本音の衝動”がある。
そして、その空気はどこか、銀杏BOYZの音に似ている。
この記事では、今話題のバンド漫画『ふつうの軽音部』と、日本のロックシーンで異彩を放つ銀杏BOYZとの間に流れる“感情の音”を読み解いていく。
『ふつうの軽音部』が描く“ふつうじゃない”青春
『ふつうの軽音部』というタイトルを初めて見たとき、多くの人は「ゆるい部活ものかな?」と肩の力を抜いて読み始めるかもしれない。
けれど、数話読み進めた瞬間に気づく。この作品が描いているのは、表面の“ふつう”という仮面の下でうずくまる、叫びたくても叫べない感情だと。
登場人物たちは、うまく言葉にできない“好き”や“悔しさ”や“孤独”を、それでも何とかギターや声に乗せてぶつけていく。
そしてその音は、どこか私たちの記憶に響いてくる──うまく言えなかったあの頃の気持ちを、そっと掘り起こすように。
この章では、『ふつうの軽音部』という作品が持つ“ふつうじゃない”衝動と、キャラクターたちの生きざまを見つめていく。
“ふつう”の殻を破って響き始めるその音は、単なる演奏ではなく、心の震えそのものだ。
鳩野ちひろというキャラクターの“叫び”
鳩野ちひろは、いわゆる「大人しい子」だ。
目立たず、争わず、誰かに合わせて静かに日々を過ごしている。
だけど、そんな彼女が、突然ギターを背負って軽音部の扉を叩く。
その一歩は、小さくても確かな“反逆”だった。
彼女は心のどこかで、“ふつう”であることに飽き飽きしていた。
“ちゃんとやる”こと、“浮かないようにする”こと、“人とぶつからないようにする”こと。
そんな器用さに、もう疲れていたんだ。
だからこそ、音に自分を託す決意は、彼女にとって“叫び”に等しい。
上手く弾けなくても、誰かに笑われても、それでも音を鳴らす。
その姿が、どれほど真っ直ぐで美しいか、読者はページをめくるたびに知ることになる。
ちひろが弾くのはコードじゃない、自分自身なんだと思う。
その音は“上手い”かどうかよりも、本気かどうかで、胸を打ってくる。
仲間とバンドと、“できなさ”を抱えながら進む日々
ちひろが加わったバンド「はーとぶれいく」は、才能の集まりではない。
リズムがズレたり、コードを間違えたり、演奏がグダグダになったり──そんな日々の連続だ。
けれど、どのメンバーも「完璧であること」を目指しているわけじゃない。
むしろ、彼らは“完璧じゃない自分たち”を認めあおうとする。
ライブでの失敗、練習中の衝突、泣き出したくなるような空気。
それでも、「一緒にやろう」と手を伸ばす瞬間がある。
その描写がとにかくリアルで、胸にくる。
“バンドって、うまくなるためのものじゃなくて、誰かと一緒に鳴らすためにあるんだ”
この作品は、そんな根源的なメッセージを、まっすぐに伝えてくる。
できないことが恥じゃない。
それを笑わない仲間がいるってことのほうが、よっぽど価値がある──そんな“関係の尊さ”も、この漫画は丁寧に描いてくれている。
“軽音部”という名の不協和音とハーモニー
部活という集団は、学校という閉じた社会のなかで、もっとも“自由”と“縛り”が混在する場所だ。
『ふつうの軽音部』でも、自由に音を鳴らしたい気持ちと、部活のルール、先輩後輩の関係性、外からの評価がせめぎあう。
練習時間のズレ、気持ちのズレ、やりたいことのズレ。
そのひとつひとつが“不協和音”を生むけれど、ちひろたちはそのズレを抱えたまま前に進む。
たったひとつのコードが揃っただけで笑い合える、そんな瞬間がある。
バンドって、きっと“ズレていい”場所なんだと思う。
誰かと揃わないことを否定するんじゃなくて、「それでも一緒にやりたい」と願う気持ちが音になる。
『ふつうの軽音部』のハーモニーは、そんな祈りのようなものでできている。
音楽って不思議だ。
言葉じゃ伝わらないことが、コードひとつで伝わることがある。
そして、その音が揃った瞬間だけ、人と人は“本当に繋がった気がする”。
この漫画は、その奇跡を、淡々と、でも確かに描いている。
銀杏BOYZの“痛み”と“愛しさ”が重なる場所
『ふつうの軽音部』を読んでいると、ふと銀杏BOYZの音が、心の奥でかすかに鳴り始める瞬間がある。
それは登場人物がギターを鳴らすシーンでも、セリフでもない。
むしろ、誰かが言葉を詰まらせたとき、音楽が止まった“無音”のコマから、不意に溢れてくる。
何も言えなかった時間の中にこそ、叫びがある──そんな銀杏BOYZのスピリットが、ページの余白からにじみ出すのだ。
読者の多くが『ふつうの軽音部』に“泣ける”と感じる理由は、演出ではなく、置いてけぼりにされた感情たちが、そこにそのままあるから。
あの時、あの教室で、私たちが言えなかった“本音”が、ちひろたちの不器用な音を通して呼び覚まされる。
この章では、銀杏BOYZという現象の中にある“痛み”と“愛しさ”、そしてそれが『ふつうの軽音部』とどう共鳴し合っているのかを追いかけていく。
銀杏BOYZとは何者か──峯田和伸という現象
銀杏BOYZは、2003年に峯田和伸を中心に結成されたロックバンド。
彼らの音楽は、技術や構成美とは対極にある。むしろ、感情の泥濘をそのまま音に変えたような、叫びの連続だ。
洗練されていない。むしろ不格好で、荒削りで、痛々しい。
けれど、だからこそ真っ直ぐに刺さる。
峯田の声は、「上手いか」ではなく「本物か」で判断される。
そしてそれは、多くの読者が『ふつうの軽音部』に感じているものと重なる。
ちひろたちの音も、上手くないかもしれない。けれど、ちゃんと“感情”が鳴っているのだ。
峯田の叫びは時にノイズに埋もれ、時に音程を外す。でもそこには、「伝えたい」というよりも、「破裂しそうな想いをぶつけるしかなかった」衝動の物語がある。
そうした衝動は、音楽という名の現象の中で、言葉以上に雄弁になる。
“恥ずかしいくらいの本気”を音楽で叫ぶということ
銀杏BOYZのライブに足を運んだ人なら誰もが知っている。
あれは、音楽というよりも祈りだ。
峯田がシャツを脱ぎ捨て、ステージの上で何かを叫びながら、崩れそうなギターを鳴らす。
それは演出ではなく、「本気を出している」人間の姿そのものだ。
音楽で自分を表現するということは、恥をかくことに似ている。
言葉にすれば照れくさい感情も、音なら届くかもしれない──その希望だけを信じてステージに立っている。
『ふつうの軽音部』のちひろたちも同じだ。
照れや失敗、未熟さを超えて、それでも「やりたいからやる」。
その強さが、“恥ずかしいくらいの本気”を全身で体現する銀杏BOYZと、見事に重なる。
そして「それでも歌う」という選択の背後には、生きることに対する深い肯定がある。
誰に届かなくても、心が今ここに在ることを証明する──その姿勢こそが、読者の心を掴むのだ。
銀杏BOYZの歌詞が“ふつうの軽音部”に共鳴する理由
銀杏BOYZの代表曲「BABY BABY」には、こんな一節がある。
「愛してるって最近じゃ誰でも言ってるよ、でも君の好きな歌は君しか知らない」──
この一文には、誰かに理解されない“好き”を持つことの孤独と、誇りが詰まっている。
それはそのまま、ちひろのギターにも通じている。
彼女は有名な曲が弾きたいわけじゃない。ただ、自分の“好き”な音を鳴らしたいだけだ。
誰かに届かなくても、それが誰の共感を得なくても、その音をやめたくはない。
そして、そうした“孤独な叫び”こそが、銀杏BOYZの核であり、『ふつうの軽音部』のエッセンスでもある。
バンドとは、技術でも編成でもなく、“誰かの本音を鳴らすための手段”なのだ。
音楽とは、誰かに聴かせるためのものではなく、自分自身を保存するための手段でもある。
だからこそ、ふつうの軽音部に流れる音には、銀杏BOYZの遺伝子が確かに息づいている。
ふつうの軽音部が描く“バンド”という関係性
“バンド”とは、ただ音を合わせる集まりではない。
個性の衝突、価値観の違い、不器用なすれ違い──そんな“面倒くささ”さえ引き受けながら、それでも共に音を鳴らすという選択。
『ふつうの軽音部』が描いているのは、まさにその“関係のリアル”だ。
一人では見えなかった景色、言葉にならない衝動、それらを「一緒にやる」ことではじめて共有できる。
この章では、作品の中に描かれるバンド関係の機微を追いながら、“仲間”とは何か、“共鳴”とはどう生まれるのかを考えていく。
音が合わないからこそ生まれるもの──ちひろと文の関係性
バンドというのは、気が合う者同士の集まりではない。
むしろ、合わないまま、ズレたまま、それでも何かを一緒にやるという決断がある。
ちひろと文の関係は、まさにその象徴だ。
技術的に見ても、彼女たちのセッションは決して上手くいっていない。
リズムはずれるし、フレーズはかみ合わない。
けれど、そこには“続けよう”という意思がある。
バンドが成立するかどうかは、音が合うかではなく、続けたいと思えるかどうか──その問いが作品の中に静かに投げかけられている。
ちひろが文に向けた“やろう”という言葉は、音楽への誘いであると同時に、人間関係へのジャンプでもある。
誰かと何かを一緒にやるには、相手を信じなければいけない。
でも、信じることは怖い。だから彼女たちは何度も迷い、黙り、遠ざかりそうになる。
それでも、またスタジオに戻ってくる。
“不完全でも関わり続ける”──そこに、ふつうの軽音部が描く“バンド”の本質がある。
“一緒にいる”ことの意味──沈黙と緊張が奏でる空気
漫画というメディアでありながら、『ふつうの軽音部』は“音のない時間”を丁寧に描く。
セリフもBGMもないコマ。キャラクターの呼吸だけが伝わるような沈黙の空気。
そこにこそ、“バンドの関係性”の核心がある。
音を出していない時間、つまり“リハの待ち時間”や“機材トラブル”のような場面に、人と人の関係が滲み出る。
ちひろと文、あるいはちひろと周囲のメンバーとの間に流れる、あの絶妙な間と緊張。
それは敵意ではないが、心から打ち解けているとも言い切れない、未完成のまま手放されていない関係。
バンドとは、会話よりも先に空気でつながる関係だ。
楽器を構えた瞬間、言葉を交わさなくても「今いけそう」とわかることがある。
逆に、ほんの小さな違和感だけで“今日は無理だ”と感じることもある。
『ふつうの軽音部』は、そんな“気配のグラデーション”を丁寧に描写している。
そしてそれは、実際にバンドをやっていた人間なら誰もが覚えのある、“音にならない音楽”の記憶なのだ。
バンドとは“解散する可能性”まで含めた関係である
バンドとは、はじまりの約束よりも、“終わり方”が難しい。
多くのバンドが、友情や実力とは関係なく、いつの間にか終わっていく。
『ふつうの軽音部』にも、そうした“不確かさ”が常に横たわっている。
みんなで仲良く青春を謳歌するわけではない。
ちょっとした衝突や誤解で、一緒にいられなくなるかもしれない──そのリアルが、作品全体に静かに張り詰めている。
でも、だからこそ、“今、この瞬間の音”が何よりも尊く感じられるのだ。
「この音はもう二度と鳴らないかもしれない」
そう思うから、今鳴らしている音に集中する。
バンドは永遠ではない。
むしろ、“壊れる可能性”を抱えた関係だからこそ、本気で向き合えるのだ。
『ふつうの軽音部』は、その危うさを美化せず、でも否定もせずに描いている。
だからこそ、現実にバンドをやってきた人の心を打つ。
そしてこれから誰かと何かを始めたいと思っている人にも、“関係をつくるとはどういうことか”をそっと教えてくれる。
“ふつう”なんて、本当はどこにもなかった
「ふつうでいたい」と願うことは、安心を求める気持ちだ。
だけど、それは“傷つかないための祈り”でもある。
誰かからはみ出さないように、変に浮かないように、なるべく波風立てずに過ごしたい。
そんなふうにして、いつのまにか私たちは「自分で自分を測るものさし」を手にしてしまう。
『ふつうの軽音部』というタイトルには、その“ものさし”を手放すまでの葛藤が、優しく、でも確かに刻まれている。
この章では、「ふつう」ってなんだろう?という問いを、ちひろたちの姿から掘り下げていく。
“ふつう”という仮面が壊れるとき
「ふつう」──それは、どこかに存在する“正しさ”のようでいて、実体のない幻想だ。
多くの人が無意識のうちに、「ふつうでいたい」と願い、「ふつうから外れないように」と自分を抑え込んでしまう。
ちひろもまた、そんな“ふつう”という仮面を被って日々を過ごしていた。
でも、その仮面は薄くてもろくて、いつか必ずヒビが入る。
それは些細な会話かもしれないし、思い通りにいかない演奏かもしれない。
『ふつうの軽音部』では、そうした“ヒビの瞬間”を繊細に描いている。
仮面が壊れたとき、人は素顔を晒さざるを得ない。
不安も、怒りも、嫉妬も、全部が溢れ出してしまう。
でも、それこそが本当の“始まり”だ。
仮面を壊したそのあとにこそ、自分の声がはじめて鳴る。
そして同時に、気づくのだ。
“ふつう”という仮面は、誰かと同じであろうとしたあまり、自分を見失わせていたということに。
守られていたようで、置き去りにしていたのは“本当の自分”だった。
その痛みに触れたとき、人はようやく「音を鳴らすこと」の意味を問い始める。
それでも誰かとつながりたい──ちひろの“ふつう未満”の感情
ちひろは、自分が“ふつうじゃない”ことに気づいている。
人と距離をとってしまう性格、好きなものをまっすぐに言えない不器用さ、
そして、他人に合わせようとしているうちに自分がわからなくなっていく感覚。
そんな彼女の“ふつう未満”な心が、ページのすみずみから滲み出てくる。
でも、それでも彼女は「バンドをやりたい」と言う。
それは、“理解されたい”という願いだ。
完全にはわかり合えなくても、少しだけ共鳴したい──
そんな微かな希望を、ちひろは音楽に託している。
文との関係もそうだ。
お互いが器用に言葉を交わせるわけじゃない。
けれど、同じ空間で、同じ楽器を構え、同じ曲を鳴らすことで、
「今この瞬間だけは、わかってもらえたかもしれない」と思える。
その一瞬の重なりを信じるために、彼女はまたスタジオへと足を運ぶのだ。
“ふつうじゃない自分”を抱きしめる物語
『ふつうの軽音部』は、誰かに「あなたはそのままでいい」と言ってもらう物語ではない。
むしろ、「自分自身で、ふつうじゃない自分を認めていく」物語だ。
その過程は決して簡単ではない。
逃げたくなるし、自分の居場所がどこにもないような気がしてしまう。
でも、音楽を鳴らすことで、その痛みが少しだけ和らぐ。
“音”は、言葉にできない気持ちを肯定してくれる。
ちひろはまだ、自分を完全には受け入れられていないかもしれない。
でも、文や仲間たちと音を鳴らす中で、ほんの少しずつ自分の輪郭を知っていく。
「私はこれが好き」「これは譲れない」
そうした断片を集めながら、彼女は“自分”を組み立て直している。
そして読者である私たちもまた、彼女と一緒に、
“ふつうじゃない自分”を肯定することの尊さに気づかされていく。
生きるって、どこかで不器用さを引き受けることなのかもしれない。
不完全なまま、それでも誰かと音を鳴らしていく勇気。
それは、世界に少し遅れて届いた愛のようで──
その音こそが、きっと私たちの“ふつう”なんだと思う。
銀杏BOYZという“異物”との交差点
『ふつうの軽音部』を読んでいるとき、ある瞬間に、銀杏BOYZの歌声がよみがえった。
むき出しの感情。息苦しいほどの言葉のラッシュ。
“かっこ悪さ”すら突き抜けたその叫びに、なぜか、ちひろたちの姿が重なって見えたのだ。
この章では、あえて「異物」として存在する銀杏BOYZというバンドの在り方と、
それが『ふつうの軽音部』の静かな旋律とどのように交差するのかを探っていく。
銀杏BOYZに流れる“痛みを叫ぶ”衝動
銀杏BOYZというバンドを初めて聴いたとき、私は「こんなにむき出しでいいのか」と思った。
峯田和伸の声は、美しいわけでも、洗練されているわけでもない。
だけど、叫び続けるその声には、生きているという事実を叩きつけるような衝動があった。
「僕たちは世界に愛されないかもしれない。でも、それでも好きな人に好きって言いたいんだ」
そんな痛みが、メロディやリズムを超えて、むしろノイズやブレとなって届いてくる。
『ふつうの軽音部』は、銀杏BOYZのように叫ぶことはない。
だけど、ちひろの中にも、峯田のような“言葉にならない何か”がたしかに渦巻いている。
それは例えば、何気ない会話で生まれる気まずさだったり、
自分が周囲に対してどこか“浮いている”と感じる瞬間だったり。
そのたびに、ちひろの胸には「うまく生きられない自分」がしこりのように残っていく。
そしてある日、ふとしたきっかけで“音を鳴らす”という行為に触れたとき、
彼女は気づく。「これは、声にならない気持ちを、外に出す方法なのかもしれない」と。
銀杏BOYZが“叫び”として放出したものを、ちひろたちは“音”や“まなざし”として鳴らす。
形こそ違えど、それは同じ「痛みの表現」であり、「自分を肯定する手段」だった。
“かっこ悪さ”を肯定するというロック
銀杏BOYZの魅力は、なんといっても“かっこ悪さ”の肯定だ。
恋に焦がれて空回りする歌詞、友だちとのすれ違い、
大人になれないまま叫び続ける姿──
どれも世間一般でいう“スマート”とは程遠い。
だけど、その不器用さこそが、銀杏BOYZにリアルさを与えている。
そして、『ふつうの軽音部』にもまた、その“かっこ悪さ”が丁寧に描かれている。
例えばちひろが、自分の気持ちを言いそびれてしまったとき。
文に対して上手く謝れなかったとき。
あるいは、ただ一人でいるのが寂しいのに、誰かに助けを求められないとき。
そうした瞬間の彼女は、ひどく“かっこ悪い”。
でも、その“かっこ悪さ”にこそ、私たちは心を動かされるのだ。
人は、完全じゃないから美しい。
それは銀杏BOYZが歌い続けてきたことでもあり、
ちひろが少しずつ受け入れていく現実でもある。
「好きなことを好きだと言うのが怖い」
「でも、言わなきゃ伝わらない」
そんな葛藤を乗り越えて、彼女がステージに立つまでの過程は、
まさにロックそのものだ。
それは、ギターを手に取ることで自分を信じていく物語。
その姿に、私は何度でも銀杏BOYZの歌詞を重ねてしまう。
ちひろの感情と、峯田和伸の歌詞が重なるとき
ちひろというキャラクターは、峯田和伸の歌詞に出てくる“君”そのものかもしれない。
「君が泣いている夜に、僕は何もできなかった」
「好きって言えないけど、ずっと見ていた」
そんな言葉が、彼女の佇まいにそのまま投影されているように感じる。
『ふつうの軽音部』は、“音楽を通して繋がろうとする物語”だ。
それは単なる青春や友情の話ではない。
もっと言えば、“自分の中にあるどうしようもない感情”を、
誰かと一緒に受け止めていくプロセスだ。
峯田の歌詞はいつも、「どうしようもなさ」を抱きしめるように歌ってきた。
その不格好さ、情けなさ、やるせなさ。
でも、そこにこそ、生きていることのリアリティがある。
ちひろもまた、完全にはなれない自分を、
文という“聴き手”を通して少しずつ肯定していく。
この作品を読んでいると、銀杏BOYZの『BABY BABY』や『駆け抜けて性春』が、
まるでBGMのように心に流れ込んでくる。
それは、言葉にできなかった気持ちを誰かが代弁してくれているようで、
ページをめくるたび、読者自身の“かっこ悪さ”もまた肯定されていくのだ。
“ふつう”でいられない私たちのための、音楽という祈り
『ふつうの軽音部』は、バンドの物語ではなかった。
それは、“ふつうになれなかった人たち”が、“ふつう”という名前の世界と向き合う物語だった。
うまく話せない。空気が読めない。期待されている役割を演じられない。
そんな「ノイズ」を抱えたまま、ちひろたちはそれでも日々を歩き、音を鳴らす。
音楽がすべてを救ってくれるわけじゃない。
ステージに立ったからといって、すべてがうまくいくわけじゃない。
だけど、「誰かと一緒に音を鳴らす」という行為には、言葉では届かない場所まで気持ちを届けてくれる力がある。
だからちひろはギターを構えた。だから文はドラムを叩いた。
その音は、祈りにも似たかたちで、どこかにいる“まだ声を出せない誰か”に届いていく。
私たちの多くも、実は“ふつう”ではないかもしれない。
だけど、“ふつうでない自分”を受け入れてくれる音や言葉に出会ったとき、
少しだけ、生きるのがラクになる。
『ふつうの軽音部』には、そんな優しさが詰まっている。
そしてそれは、銀杏BOYZが音で叫び続けてきた「それでも生きろ」という衝動にも、確かに重なっている。
物語の中で、ちひろたちは「自分のままで音を鳴らすこと」を選んだ。
それは、誰かと比べたり、上手くなろうと焦ったりすることとは違う。
ただ、自分の気持ちに正直に音を出すこと。
それこそが、ロックであり、祈りであり、生きているという証だったのだ。
この作品に出会って、自分もまた“ふつうじゃない”ことに少しだけ誇りを持てるようになった。
そう思えたとき、たぶんそれは、もう音楽が鳴り始めていた瞬間なのかもしれない。
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